個性が溶け出す「ポストAI時代」で何を語るか

久しく遠ざかっておりましたが、少し時間ができたので戻って参りました。

このところ悶々と考えていた生成系AI時代の「発信者のありかた」、また今後の当ブログの方針について少し書き散らしてみます。

画像はもちろん by DALL-E です。どの様なイメージを入力したのかは後ほど。

とにかくエグいChatGPT

いやあ、便利ですよね ChatGPT。

正直、私はすでに依存状態にあります。 2年も経たない内に GPTナシで生きられないカラダにされました。ここまでAIに思考機会を奪われてしまって果たして大丈夫なのかと我ながら不安になるレベルです。

そしてその圧倒的利便性に乗っかると同時に、自分の情報発信のあり方にも向き合わなければならないと考えるようになりました。

たとえば「私が90%満足できるもの」を作るとき、文書で数時間、動画であれば数十時間を要します。英語ならさらに数倍です。しかしChatGPTを使えば「60–70%満足できるコンテンツ」を数分で作成できます。多少の調整をしても10分といったところでしょうか。

そうなってくるとやはり、コンテンツ作成や発信のあり方には大きな影響が出てきます。程よいAIサポートベースでコンテンツを量産している方もいると思いますが、私はコミットしきれず、なんとなくモヤモヤも残るので滞っています。そこまでAIベースになってくるともはや「私でなくても良くね?」とも思ったり

実際にこの数年、いかにも生成系AIで作成されたような量産型コンテンツがどんどん増えていますよね。その質は60%程度のものかもしれませんが、その数と増殖スピードは圧倒的です。

今後もこのトレンドは続き、ほとんど検索でヒットする上位のブログはAI記事に置き換わるかもしれません。というより最終的には誰も「検索」をしなくなるのでしょう。GPTに聞けば済む話ですから。

ポストAI社会の情報発信

話が逸れてしまいましたが、要するに「自分の言葉でコンテンツを発信すること」の意義やありかたが変わってきたのではないかということです。

すでにプログラミング教育や英語教育では多くの業務の大部分が ChatGPT らに取って代わられつつあるでしょうし、一部のニュースなどもそうでしょう。この先もそのトレンドは加速すると思います。

そして実際に新薬や新治療・新検査といった医療系の報道も、もはや全てChatGPTに書かせた方がいいのではないでしょうか。

医療ニュースはもうGPTでよい

現状の報道の多くは、医療ニュースに対する批判的吟味の要素がごっそり抜けて落ちています。利益相反もあるのでしょうが、ほとんどがプレスリリース鵜呑みマンでありフェアな発信とは言えません。

しかしChatGPTを用いればごく簡単に「特定の吟味アプローチ」に沿った出力を指示することができます。

たとえば新薬の臨床試験(RCT)を扱う時は「GRADEシステムに則って批判的吟味をして」と論文のPDFを読み込ませればいいだけです。GRADEでなくても批判的吟味のチェックリストは色んな所に転がっています。適当にネットから引っ張ってきてその内容を読ませてもいいでしょう。

そこで出力された内容をベースにして多少プロンプトをいじりつつ記事を書いてもらえば、現状の報道よりはるかにフェアなものをすぐに得ることができます(もちろん内容のチェックは必要ですが)。わからない専門用語ものその場でGPTに聞けばすぐ解決です。

同様に新検査については「QUADAS-2に則って吟味して」で即終了です。

診療ガイドラインのためのGRADEシステム 第3版


臨床論文の批判的吟味〜意思決定に際しての必修知識「GRADE」の詳細な解説書。私たちはどのようにエビデンスを総括し意思決定につなげるべきなのか。

EBMという漠然とした概念の解像度をかなり高めてくれる名著で,JAMA users’ guides 同様に広くお勧めしたい一冊です。「ガイドラインの読み方」が変わります

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統計の疑問もすぐ解決できる

また医療統計についても、基本的な内容であればほぼChatGPTで解決します。 「中学生でもわかるように教えて」と指示すれば大体理解できる内容を吐いてくれると思います。質問もし放題ですから、全く分からないままに終わるということはほとんどないでしょう。

私の発信は「医療ニュースにまつわる基本的な考え方をなるべく分かりやすくまとめて共有し、その過程で自分の学習もする」というのが基本方針でしたから、上記はまさにドンピシャの内容です。いまやChatGPTを使ってほとんど無限に記事を生成可能だと思います。

しかし自らそうした発信を行う意味を考えると、何となく気分が上がらない様になってしまいました。短い時間で済む様になったとはいえ、というよりラクになったからこそ、わざわざ行う価値が目減りしたように感じてしまいます。

またCOVID-19を取り巻く社会的混乱が落ち着いてきたことで使命感的な意欲も少し落ち着いた、ということもあります。

私が情報発信を積極的にはじめた動機の1つはアビガンが「対コロナの切り札」かのように持て囃されていたときの何とも言えない焦りでした。

ネットの医療リテラシーの行く末

もちろん現在も医療情報リテラシー格差は深刻です。

企業等のプレスリリースは相変わらずミスリーディングなものばかりで、ニュース記事もそれをそのまま垂れ流しています。SNS にはとんでもない医療系デマがいまだに溢れています。色々な利益相反があり、こうした情報を全て規制することは不可能なのでしょう。

しかし少なくとも何か問題のある医療情報発信があったとき、それについて物申す人や疑問に思う人は増えてきている様にも思います。コロナ騒動を経て、なんとなくそんな土壌が形成されつつある様な。

まだ過渡期だとは思いますし、今日も SNS は水掛け論で賑わっていますが、色々な情報の敷居が下がったことで長期的には良い方向に進んでいくのではないかと楽観しています。

私の種まきがその土壌形成にほんの少しでも貢献できたらと思うところではありますが、まあそうでなくても大きなトレンドとして情報の透明化は進んでいくのではないかなと。

とりあえず色々な疑問をすぐ「AIに聞ける」ようになっただけでも情報の民主化はかなり進んだと思います。いまやAIに論文のPDFを与え「利点と問題点を挙げて」と指示するだけで、簡単に要約を得られるわけですから。

今後の情報発信

というわけで何となく自己完結しつつある現状、今後の発信のあり方は模索中です。

色々落ち着けば引き続きYoutubeを含めた「基本的なお勉強」の発信は続けていきたいと思いながらも、AI活用を含め発信スタイルの変更は割と真剣に考えています。

そもそも医療統計関連の基本を取り扱うのは①自分の学習かつ②趣味活動という感じだったもので、今後もライフワークのように末長く続けていくのか、畳んでいくのかも悩ましく感じています。更新が滞ってからも登録者が増えていて確かな需要は感じているのですが…

昨今は MPH や疫学の知名度も高まり、この分野の素晴らしい教育プラットフォームも次々出てきています。いよいよ素人の私がわざわざ自分の拙い言葉で公開していく価値について再考が必要だと思っています。

幸い現在私の生活・本業が充実しており、目の前の仕事にコミットしなければならないという事情もあります。ですから今後も当面「お勉強ネタ」は休止することになりそうです。そしてその間、今後の情報発信について模索してみたいと思っています。最終的には雑記を書くだけに落ち着いていくかもしれません。

Rのコードごと Jupyter Notebookなどで勉強メモを公開する形も考えましたが、既に類似の素晴らしい教材はありますし、むしろ読者の間口を狭めるようにも思います。

AI世界での「代替可能性」

さてここから先は完全に余談の駄文ですが、AIの存在って、究極的には「人々の代替可能性を高めていくもの」なのだろうなと解釈しています。

「あの人じゃないと書けない文章」「あの人じゃないとできない仕事」はことごとくAIの膨大な集合知に吸収され、誰でも数行の質問を投げるだけで十分な再現が可能になる。

溶け出す個人

生成系AIが深く生活に入り込んだ社会では、教育で何か新しい発信をしても、研究で何か新しい発見をしても、それは瞬く間に人類の集合知という「巨人の肩」に吸収されていく。人類の叡智の一ピースになれるという希望的な側面もある一方で、その速度はあまりに速くなり過ぎていて、1つ1つの存在感が砂粒のように溶け出していくようです。

個々人の仕事が「すぐさま全体の中に溶け込んでいく」様は、膨張し続ける宇宙の中での我々の存在感を考えたときのような漠然とした不安感を抱かせます。

こうした「個の消失感」というものは、もしかしたらこの先の世界のテーマになっていくのではないでしょうか。なんとなく「替えのきかない人」になりたいと考えてきた自分にとって、これは結構価値観そのものに関わる重大な変革です。

冒頭の画像は上記のイメージ(+猫)を伝えたらGPTが生成してくれました。

英語の世界は既に均質化?

実際、私はすでに英文作成において個を失っています。

機密を除き自分の英文はほぼすべてAIツールで校正・推敲しているからです。多少の好みはあれど、私の英文は言語モデルが計算した「平均的な文章」に収束していると思います。私自身、私が書いた英文(+GPTの修正)を他の人が書いた文章から鑑別することは難しいかもしれません。

そもそもAI出力された英文自体、非ネイティブの私が「AIらしさ」を見抜くのは困難です。特に英語はもともと文構造に日本語ほどの自由度がなく、日本語よりも「書き手の人格」が滲みにくい言語のなのかもしれません(完全に私見)。

しかも非ネイティブがAIをつかって均質的な文章を大量に投稿する様になっているため、この傾向は加速しているのではないでしょうか。

特に論文などアカデミックな文脈では昨今ますます平均的で読みやすい文体が好まれるようになっており「誰が書いても一緒」感はかなり強まっているように思います。

そう考えると「英文の世界」においては既に全体化・均てん化(没個性化)が和文よりかなり進んでいるのかもしれません。

個人的に気になっているのですが、英語ネイティブの方は現在どの程度AI生成文章の匂いを嗅ぎ取れるものなのでしょうか。

医師の業務とAI、代替可能性

こうした没個性化の波は既にあらゆる職場に影響を与えていますが、当然、医師も例外ではないと思います。

医師の仕事は大きく臨床・教育・研究の3つがあると言われます。もちろん大多数の医師にとって最も大きなものは臨床ですが、臨床の質は専門医同士であればそもそも代替可能なもの(であるべき)です。

となると経験が一定程度プラトーに達した内科系の専門医が「代替できない人」になるには、教育(レジデント教育はもちろん情報発信・啓発も含む)や研究に力を入れていくしかない。そして医学の発展のためにもそうすべきである。……というのが従前の私の考えでしたし、そう教わってきました。

しかし先述した様にもはやChatGPTが十分教育ツールとして機能するようになってきているとなると、教育者・発信者としてのアイデンティティ維持は今後ますます難しくなっていきそうです。

そもそもChatGPTでほとんどの疑問が解決するようになれば、現場の実地的なコミュニケーションやトレーニングを除き「教育者の需要」自体が萎んでいく様に思います。実際すでに現在、自主学習のツールがかなり充実しています。

研究者は代替されないか

残る「研究者」の側面についても、本当に代替されないのかといえば、それも自信がありません。

もちろん臨床や教育・情報発信と比べればまだオリジナリティの余地が残された分野です。しかしそれでもすでにデータベースなどを扱うドライ研究者、臨床研究を主導する研究者の代替可能性はかなり高まっているように思います(そして医師研究者の多くはこのパターン)。その人がやらなくても誰かがその仕事をするであろう、ということです。

またベーシックなウェット研究、ニッチ領域の一次研究であればまだ当面「代替されない」オリジナルな仕事を追求できると思いますが、そもそもこの分野は医師よりバイオ系 non-MD の方々に大きな長があり、医師が臨床の片手間のような仕事で彼らを代替することはできません。それに10年や20年後はどうなっているでしょう。もしかするとこの領域すら時間の問題という可能性もあります。ディストピアっぽい空想ですが、ウェット研究者が全員AIの仮説通りに動く思考停止ラボテクニシャンになる未来が来ないとは言い切れません。

そうなってくるといよいよあらゆる研究活動は究極的に代替可能となりノーベル賞すらも「その時たまたまその研究分野にいた人」というだけのものになります。奇しくも今年のノーベル賞はAI関連が多かったわけですが、これがそうした未来の始まりなのかもしれません。

そもそもマクロな視点で考えたら、本質的に人類の知的活動は全て「その人でなくても他の誰かがやっていた」ものに過ぎないかもしれません。そう考え始めると「代替不可能な存在」なんてものがそもそも幻想のように思えてきます。

はい。自分でも何が言いたいのか分からなくなってきました。

とにかくどんな働き方であれ「代替可能」になっていく未来は避けられないのではないかということです。

この先AIとどう生き、何を語るか

飛躍しすぎましたが、AIの登場が価値観や生き様の選択を迫っているのは事実だと思います。ほとんどの仕事が本質的な意味で代替可能になっていく中で、どこに譲れない自分らしさがあるのか。どこまではAI任せでよくて、どこから私たちが自分で考えたい/選びたいのか

とはいえあまり哲学的に考え始めてしまうともうよく分からないので好きなことを突き詰めて生きていくしかないんやろなとも思っています(急に安直)。

ネットで自分達の個性が溶け出していこうが、現実として「地に足をつけて自分らしく楽しく仕事ができている」のであればそれでいいわけですから。

医師の場合、たとえ代替可能だとしても実地的な臨床と教育(後輩医師教育)などで手堅く達成感を得ていくのが幸せなのかもしれないし、やっぱり自分なりに情報に色付けをして発信する楽しさや、研究に没頭する楽しさは依然大きなものがあるのかもしれません。あるいは医業から少し離れ別の道で社会貢献を試みるのも良いかもしれません。

AIが席巻している今だからこそ「対面コミュニケーション」の意義が大きくなっているような気もします。

いずれにせよ、この新世界で「自分は何者になりたいのか」「どう生き、何を語りたいのか」自問自答しながらキャリア選択をしていくことが重要なんでしょうね(雑な締め)🤔

読者の皆様は、AI といかがお過ごしでしょうか。

このような駄文を書き連ねられるのも人類の特権です。やっぱり文章を書いてデトックスをすることは私の人生にとって今後も重要であり続けるのかななどと考えたりもします。

ここまでお読みいただきありがとうございました。今回この文章を書き散らすにあたって、山崎元さんの訃報と下記の名著を読んだ(Audibleで聴いた)ことに相当な影響を受けました。よろしければ手に取ってみてください。倍速なら90分ほどで聴けると思います。名著です。

経済評論家の父から息子への手紙-お金と人生と幸せについて


「正しくて、できれば面白いことを、なるべくたくさんの人に伝えて、できればちょっと感心されたい」そう仰っていた山崎元さんが息子さんや若い世代に宛てて書いた名著。代替可能なサラリーマンとして生きることの意味、そうでない道の選択肢…経済合理性のみに限らない人生哲学も詰まったすばらしい一冊でした。私は彼を信じこの先もオルカン一択積立ホールドな人生を生きたいと思います。

[おすすめ本紹介]

Users’ Guides to the Medical Literature


タイトル通り「医学論文を現場でどう応用するか?」迷える臨床家のためのユーザーズガイド。Tips 集のような構成で,どこからでもつまみ読みできます(通読向きではない)。医学論文の批判的吟味を学ぶにあたり 1 冊だけ選ぶならコレ,という極めて網羅性の高い一冊です。著者 Gordon Guyatt 氏は “EBM” という言葉を作った張本人。分厚い本ですが,気軽に持ち歩ける Kindle 版はオススメです。邦訳版もあります。

医学文献ユーザーズガイド 第3版


表紙が全然違いますが「Users’ Guides to the Medical Literature (JAMA)」の邦訳版。医学文献を批判的吟味するためのTips集としてかなりの網羅性を誇る代表的な一冊です。唯一の欠点は Kindle版がないこと(英語版はある)と,和訳が気になる部分が結構あること。2つでした。原著とセットで手に入れると最強の気分を味わえます。鈍器としても使えます

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