「効かないとは言えない」治療に対する医療者の向き合い方

ある医療行為に対し,どの程度「効果、、」が期待できるかには,スペクトラムがあります(▼)。

効くかもスペクトラム

たとえば COVID-19 のような新しい病気が現れた時,いきなり上図〔黄領域〕の治療法が彗星の如く現れるわけではありません。〔赤領域〕の段階から,徐々に泥臭い検証を経て〔黄領域〕まで登るというプロセスを経ます。

その間,〔赤領域〕の「効果が曖昧な医療行為」に対し過剰な期待を煽ったり,逆に早い段階から「効かない」と決めつけたりすることは,科学的な態度とは言えません。

今回は,この〔赤領域〕の医療行為に対して私たちがどう向き合っていくべきかについて考えてみたいと思います。

対立する2つの意見

不確実性の大きい医療行為に対する向き合い方としては,以下2つの対立意見がしばしば取り上げられます。

  • 「かもしれない止まり」なら「使うべきでない」
  • 「効くかもしれない薬」なら「使えるべき」
専門用語では,前者は「αエラーに厳しい立場」で,後者は「βエラーに厳しい立場」です。

こと〈公的医療〉という観点に立つ場合,合理的なのは前者の立場です。勝ち目の低いギャンブルに公費を投じるわけにはいきませんから,当然のことです。

しかし集団合理性から離れて倫理・患者信条などを考慮したとき,後者の考え方を全て捨て置けるかは,難しい問題です。

以下ではそれぞれの立場に立って,両者の思考を紐解いてみます。

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「かもしれない止まり」なら使うべきでない

まずは

「かもしれない止まり」なら使うべきでない

という立場について考えてみます。これはつまり,αエラーを憂慮する立場です。

公的機関の取るポジション

この立場は,主に公的機関やプロ集団が採用するものです。

この背景にある思想を一言で形容するならば「安全策」です。

実は何の効果もない化学物質」を公費でバラ撒くわけにはいかない

ということを考えれば,ごく当然の立場であると言えます。

化学物質はどのようなものであっても(素晴らしい薬剤であっても)一定確率で有害事象を引き起こすため,現実世界には「毒にも薬にもならない」などというものは存在しません。〔薬〕にならないのであれば,それはもはやただの〔毒〕です。弱毒かもしれませんが,あえて飲む意味はありません。

そのようなものを上市させてしまっては,コストばかりかさみ,なんのメリットもありません。

そのため,あらゆる新薬の臨床試験ではかなり厳格な検証的プロセスが踏まれます。これは「かもしれない止まりの薬剤候補」を切り捨てるために他なりません。

経済合理性を考えても,このポジションに落ち着くのは必然です。

しかしここで問題になるのが

「効かない証明」がされているわけではない

(少なくともある個人に対しては)「効く、、」可能性が否定できない

ということです。

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効かないとは言えない 「効く可能性」が「否定できない」なら,その治療へのアクセスは担保されるすべきだ。 検証的データが不十分でも,選択の自由は当人に委ねられるべきだ。 といった主張は,様々な医療行為・化学物質に関してしばしば持ち上が[…]

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効くかもしれないものへの機会を奪う?

前回の記事で詳細に扱ったように,あらゆる化学物質に関し,以下の主張をしつづけることは半永久的に可能です(▼)。

  1. 集団の期待値として,まだ「効く可能性」は「否定されていない」
  2. 「その人 個人には効く可能性」は残っている

特にこれらのうち②の否定は絶対に困難であり,いわゆる悪魔の証明です。

そのような中にあって,

「効くかもしれない治療法」へのアクセスを完全に断つことは倫理的に許されるか?

患者本人がリスクを承知でトライしたいというならその自由意志は尊重されるべきではないのか?

といった主張が出てくることも また必然と言えます。

この論理の要点まとめ

「かもしれない止まり」なら「使うべきでない」

という立場をとると,以下(▼)のような利点と欠点を併せ呑むことになる,ということです。

利点 = 安全性の担保
  • 効果の確信性が高いものだけが上市される
  • 効かない化学物質を公費でバラ撒くという災厄を回避しやすい
欠点 = 遅くなる
  • 「本当に効く」かもしれない治療にアクセスしそびれる人が増える
  • 十分なサンプルで検証されるまで「本当に効く治療」の普及が遅れる

このバランスをどう考えるかが,次の対立意見との相違で重要なポイントになります。

「効くかもしれない」なら「使えるべき」

では今度は

「効くかもしれない」なら「使えるべき」

という,逆の立場の言説について検討してみます。

ここで重要なのが,実際にはこの意見をとる立場も一枚岩ではないということです。

つまり一口に上記のような言説を主張していても,詳しい内容を尋ねてみると,それぞれ「許容する範囲」には幅があります。

例えば端的には,主に以下の2段階がありそうです(▼)。

「効くかもしれない」なら「使えるべき」という考えの2段階
  1. 集団的な効果にもまだ期待している立場

    集団期待値として〔効く〕可能性が十分否定されるまで,トライする自由が担保されるべき

  2. 集団的な効果は期待していない(気にしていない)立場

    集団期待値やエビデンスがどうであれ,患者が希望すれば機会は与えられるべき

① 集団的な効果にもまだ期待している立場

まず ① の主張をことばで表現すると,以下のようになります。

自分はこの治療法が「効く」可能性があると考えている。実際に,そういうデータや論文もある。バイアスリスクを主張する者もいるが,それは〈有意差〉を示せていない論文の方にもある。まだ検証的試験の数は少なく,結論は分からないはずである。「効く可能性」は「否定できない」だから使用は許容されるべきである。

※具体例として,近年では COVID-19 に対するイベルメクチン処方問題が挙げられます。ただし 2022 年 5 月現在,ほぼ効かない(多少効いたとしても効果量は非常に小さい)だろうという結論に収束しつつあることを明記しておきます。

これは,端的に言えばβエラーを憂慮する立場」であると表現できます。

しかし「効く可能性を否定する」ことは,統計上かなり困難です(前回記事で詳述)。否定的な結論に収束するほぼ唯一の手法は,十分大規模データが出揃うまで待つしかありません。

そのため,上記のような言説を掲げれば,実質かなり長期的に〈効くかどうか不透明な治療法〉を使用しつづけることになります。

自費診療であれば許容できるか

この間,患者さん本人が強く希望しているのであれば,確かに「自費診療で対応」という選択肢はあり得るのかもしれません。

実際,患者さんも「何かしてもらった感」で満足を得られるかもしれませんし,プラセボ効果で本当によくなることもあり得るでしょう。

しかし保険外診療というのは当然,提供する側もされる側も,相応の覚悟と責任が求められます。万が一「害のほうが多い」と後から明確に示された場合,どうなるのか?有害事象発生時の責任は誰がどう取るのか?

少なくとも「どれほど不確実性が高い行為なのか」という認識は十分共有しておかなければなりません。

いずれにせよ,臨床現場での安易な適用は避けるべきでしょう。

そもそもこうした情報共有は,公費で認められた信頼性の高い標準治療であっても行われるべきものです。さらに不確実なものを扱う際,より慎重な議論が必要であることは言うまでもないことです。
|不確実性を扱う難しさ
なおある段階では効果が示されず推奨されなかった薬剤でも,有効性を確信できるような大規模な治験の結果が出れば,ポジションがガラリと変わって「推奨」されることは実際にありえます。しかし逆に,数年後になってから実は「やっぱり害の方がかなり多いことが明らかだった」と結論づけられる可能性もあります。前者ならよいですが,後者の場合,勇んで保険外診療をしていた医師たちは槍玉に上げられてしまうかもしれません。確定的なことが言えない状況で何が「最善」と考えるか。これは医学・統計学の範疇を超えた領域も含む問題です。

② 集団的な効果は気にしていない立場

続いて②の立場について考えてみます。

これは要するに

集団期待値やエビデンスの確立を追求する気はなく,患者が「効果」や「奇跡」を期待するから提供する

と割り切った立場であり,しばしば問題になります。

彼らの論理は突き詰めれば以下のようにまとめられます。

  • この治療が目の前のこの人に「効く可能性」は否定できない
  • 効く可能性があるものを「試す」かどうかは個々人の自由意志である
  • 私たちは希望されたものを提供するだけである

こうしたポジションで提供される(自称)医療行為は,当然ながら公費負担とはなり得ないため,原則 自費診療となります。

しかし先述した①の立場とは決定的に違うポイントがあります。

それは

「エビデンスの追求」という科学的行為を完全に放棄している

という点です。

科学を放棄しながら,科学を装う?

ことさら問題なのは,上述のように「科学的妥当性を放棄しているにも関わらず,科学的であるかのように装う主張」をしているケースです。

最もよくあるパターンは,それらしい「メカニズム」や「理論的仮説」の強調(権威者の太鼓判つき)です。

そもそも,あらゆる化学物質の人体への影響はブラックボックスです。いかに最もらしい分子生物学的メカニズムをご高説されたところで,実際の人体でその通りにいくとは限りません。

……で,ヒトでちゃんと有効だったデータはあるんですか?

という話になるのは当然のことです。

科学の土俵に上がるのか,上がらないのか

もしも分子生物学的なメカニズムなど「科学らしさ」を主張するのであれば,そうしたエビデンスの提示を求められるのは当然です。

科学的議論の土俵に上がろうとするのであれば,その土俵で戦う覚悟があるとみなされます。

その際,統計的な偏りや誤りがあればボコボコに指摘されても文句は言えません。質の高いエビデンスなどというと難しく聞こえますが,要するに「ヒトで突き詰めて検証していますか」と聞いているだけのことです。

百歩譲ってエビデンスが不十分であることを許容したとしても,では「エビデンスを蓄積し公表するための努力はしているのか?」と詰問されてしかるべきです。

ヒトでの十分な有効性データはない

これからまとめて出す気もない

となれば,科学を放棄して「このツボを買えば救われる」と言っているのと同レベルです。

そのような貧弱なデータしかないことを提供側が十分認識しながら,不誠実な情報提供を行ってマーケティングを行なっていれば,誇大広告・詐欺行為として咎められても文句は言えないでしょう。

|科学との隔絶を割り切ったケースは?
なお「科学的でないことは完全に認めますが,好きにさせてもらいます」と言うケースに対しては,科学の踏み入る余地はありません。特別に信仰したい何かがあるというのであれば,それに対して「科学的であること」や「統計的に合理的な判断」が常に優先するわけではありません。リスクの評価をすることと,その押し付けをすることは違います。行動選択や価値観はあくまで個人の自由であり,そこは科学の土俵ではありません。たとえば特定の宗教では,生死に関わる場合であっても輸血拒否,といったこともありますし,その意思は尊重されるべきです。同じような文脈で「この化学物質を飲めば救われる」と信じて飲むのであれば,その自由意志に対して「科学的妥当性」を押し付けることはできません。むしろそこまで割り切っているのであれば,科学とは相互不干渉ということで良いと思います。が,実際にはそこまで割り切ることはできず適当なメカニズムなどを主張してしまいがちなので,科学的な土俵で問題視されるケースが多いのでしょう。

これらの論理の要点まとめ

以上「効くかもしれない」なら「使えるべき」論を2段階に分けて考えてみました。

「効くかもしれない」なら「使えるべき」という考えの2段階
  1. 集団的な効果にもまだ期待している立場
  2. 集団的な効果は期待していない(気にしていない)立場

① はβエラーを憂慮するものであり,一考の価値があります。実際,質の高い検証的試験が複数行われるまで効果の否定は困難です。しかし治療の不確実性に関して非常に密な情報共有がなされない限り,臨床現場で安易な適用はすべきでないと思っています(私見)。

② は科学を放棄した立場です。にもかかわらずメカニズム、、、、、などを主張して不誠実な金儲けをするようなケースは,科学の土壌でタコ殴りにされたら良いと思います。

これは喫煙を例にとって言えば

  • 個々人が(リスクを承知で)喫煙するかしないかの意思決定は自由
  • しかし「喫煙に発癌性はない」「喫煙はむしろ体に良い」といった主張をばら撒くことを許してはならない

ということです。上記のような言説を科学風に騙る人物が現れたら,科学の土俵で戦う必要がある。そういうことだと思います。

「科学的である」ことの限界

さて,ここまで

  • 「かもしれない止まり」なら「使うべきでない」
  • 「効くかもしれない薬」なら「使えるべき」

の両者の背景にある思想について紐解いてきました。

そしてこれは極端化すると,以下のような論争に行き着きます(▼)。

結局のところ私たちは,こうした不確実な情報とどのように向き合っていけば良いのでしょうか。

「科学的妥当性」が全てではない

はじめに明記したように「科学的に妥当なのはどちらか」という観点で争うのであれば,前者に軍配があがります。

ヒトで有効だという十分な検証的データがないのなら,安易に使うべきではない

──あくまでこれが科学的(あるいは集団的)には妥当な、、、判断となります。

優先すべきは「効かない化学物質(=毒)を公費でばら撒く」という悲劇の回避であって「効くかもしれないなら使いたい」といった感情論は切り捨てられます。これは,血税をより有効に活用するためにも必要な線引きです。

それが集団合理性です。

しかし「集団として合理的か」という議論から離れ「個々人が何を信じるかは自由」「何にお金をかけても自由」という話になると……正解は存在しなくなってしまいます。

そこは必ずしも科学の土俵ではないからです。

たとえば喫煙が肺癌のリスクだからと言って「喫煙したいという価値観」それ自体を否定する権利は,科学にはありません

倫理的,心情的,宗教的な観点は科学とは全く別軸の問題であり,そしてまた,蔑ろにされるべきでないものです。科学的見地からリスクを評価することは大切ですが,その先の意思決定を強制するものではありません。

最終的には「集団的合理性の追求」と「個人の自由裁量の許容」という価値観対立にも通じるものがあり,だからこそ難しい問題です。

臨床家にできることは?

このような問題の狭間にあって,臨床家の私たちにできることは限られています。

患者さんの身体・健康は患者さんのものであり,治療選択の意思決定も患者さんの自由です。本来,私たちには何の裁量権もありません。

しかしそれでも私たちは,目の前の患者さんから,その選択の判断を依頼されます。それは,私たちの判断がプロとして期待されているからです。

患者さんに真摯なのは?

そのため,いかなる状況でも重視すべきなのは

どのような情報提供が最も真摯か,きちんと考えること

ではないかと思います。

検証不十分な治療法を「検証不十分ですが……」と断ったうえ「(自費で)提供してあげること」が正義なのか。「それはやはりおすすめできない」と説明し続けることが正義なのか。それは個々人の状況や価値観・倫理観次第であり,常に明確な単一回答があるわけでもありません。

私個人としては後者の立場をとることがほとんどですが,前者の立場を「科学的に誤りだ!」と断じて拒絶反応を示してしまうのも,何か違うように思います。

|保険診療でも…
この問題は保険外のみならず,保険診療においても言えることです。実際1990年台までの日本の医薬品承認は極めてザルだったため,「多分効かないだろう」という薬剤がいまだに保険診療(=公費)で処方されている現実があります。具体的な薬剤名の提示は避けますが,内科医や薬剤師の先生方であれば,きっといくつか頭に思い浮かぶ薬剤があるものと思います。そうした効果不透明の薬剤を処方し続けるのか,自分は処方しないという選択をとるのか。そうした薬剤に対するポジションにも,立場や信条の違いが現れるような気がしています。

医師はコンサル業

私は,臨床医はコンサル業のようなものだと考えています。

実際,英語では「医者にかかる」ということを consult a doctor と言います。

目の前の患者さん一人に対して「どのような選択をしたら,最良のアウトカムを達成できる期待値が高いか?」真剣に考えることが仕事です。

未来は神のみぞ知ることであり,医学に100%はありません。それどころか不確実性の塊です。しかしその中でもなるべく「成功期待値の高い選択肢」を選んでもらう──そのための情報収集を惜しまないが,私たちの仕事です。

つまり「妥当な選択肢を提示する」ことに専門職としての価値があるわけです。そして実際,患者さんもそのような「プロの意見」を期待して私たちの元を訪れているはずです。

ですから,その立場を利用して

  • 不誠実な情報提供
  • 不当な高額自費医療への案内

などをする医師や専門家は,プロではないと思っています。

「目の前の患者さんのアウトカムを最良にする」コンサル業としての責務を放棄しているからです。

特にその免罪符として「悪魔の証明(効かないことは証明できない)」を提示されてしまうと,科学の無力さに肩を落とすことしかできません。

|悪意がなくとも
これは仮に悪意がなかったとしても同じことです。「目の前の患者さんの益を最大限に考えた」と当人が主張していても,その時に参照したエビデンスが「明らかに統計的な誤り(偏り)を持った情報」ばかりでは,単純にプロ失格です。あまりに職能不足と言わざるをえません。

真摯にありつづけること

しかし,そうした個別の「不誠実事例」と戦い続けても,モグラ叩きが続くだけです。

完全な撲滅など困難でしょうし,何より科学的妥当性の有無と個々人の価値観・意思決定は別の問題です。

  • 最終的には個人で意思決定してもらうしかない
  • しかし求められれば全てを説明する準備はある
  • 詳細はコチラ

そのくらいのドライさで,しかし「詳細はコチラ」の先には質の高いコンテンツを用意し,最終的に全国民のリテラシーを高めていく。

このくらいが限界なのかもしれません。

繰り返しになりますが,科学は価値判断を行うものではありません。判断するのは「リスクの見込み」までです。それ以降どう考えるかまで強制することはできませんし,他者の価値観そのものを否定する権利もありません。この点はしっかりと割り切る必要があると思います。

そうした限界はわきまえた上で「科学的妥当性を本当は気にしている人たち」には正しい情報源への橋渡しを惜しまない

何よりまず「目の前の患者さん」に対し,コンサルタントとして真摯な仕事をする。

そのために,まずは自身の統計リテラシーを高める。そして明らかなフェイクは,毅然と指摘する。

これらの重要性は普遍的なことだと思います。

情報リテラシーを磨くしかない

長くなりましたが,要するに「全員」が

医学・統計学の限界をよく知ること

に全ての始まりがあるように思います。

医学は決して万能ではありませんし,統計学も同様です。そもそも不確実性を扱う学問なのです。「統計学的に有意か」どうかという議論自体,かなり制限の多いものです。分からないこともありますし,間違えること,偏ることもあります。未来を扱う以上,データを見ながら少しずつ軌道修正していくしかありません。

その難しさの中で,不適切な情報に踊らされてしまう人が出てしまうこともあるかもしれません。

しかし,もし患者さんが「科学的データに基づき意思決定をしようとしている」のであれば……その根拠になるデータが不適切なものであってはならない。それだけは確実なことです。

医療者として,そうした悲劇を防ぐための真摯な情報共有を心がけ続けたいと思います。

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まとめ

「効くかもしれない」治療には2通りの考え方がある。
  • 「かもしれない止まり」なら「安易に使用すべきでない」(αエラー憂慮)
  • 「効くかもしれない」なら「使えるべき」(βエラー憂慮)
  • 科学的妥当性・集団合理性だけを考えれば,前者の考えがきっと「正しい」
  • しかし科学の土俵から離れ「個人の選択と責任」で後者の考えを採用することは絶対にダメか?自費でなら良いのではないのか?……そう言われたら,誰にも否定はできない。科学は価値観にまで介入するものではない。
  • ただ以下のことだけは,確実なこととして明記しておきたい。
確実に言えること
  • 患者さんが何を尊重・期待しているかまず確認する(最重要)
  • 「科学的に妥当な意思決定」を期待していたはずの患者さんが「科学的に妥当でない根拠」に影響を受けすぎるケースは悲劇である
  • 科学的に行おうとした意思決定の根拠が「明らかに偏っている」「明らかに間違っている」ということだけは避けなければならない
  • そのため医療提供側も患者さん側も,高い情報リテラシーが必要
  • 何より,プロがコンサルとして「真摯に情報を伝えること」が重要

うーん……今回の記事はなかなか……知恵熱が出るような内容になってしまいました。

その割に結論の歯切れも悪い(笑)。

これからも考えることをやめずに診療を続けたいと思います。

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